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心配のまなざし

心配
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「あなたのことが心配だよ。」が悲しかった

少し前、知人から、「もし、あなたが子どもを1人で育てるとしたら心配だよ。」と言われました。

その言葉が、なんだかとても悲しかったのです。

今、私には子どもはいないし、仮に育てるとして夫もいるので一人ではないのですが、「もしも一人で育てるなら…」という話でした。

たぶん、私のことを思って、優しさで心配してくれたのだとは思います。

でも、それを聞いた私はとても悲しい気持ちになりました。

「心配だよ。」と言われた瞬間に、「私の、大変なことを乗り超える強さを信じてもらえていないんだ。」と感じたからです。

どうして悲しかったんだろう?

その出来事のことをいろいろ考えました。

まず、「どうして、人から心配されたら私は悲しくなるんだろう?」

これは、「他人の評価が自分の本当の姿だ」と思い込んでいる私がまだいるということです。

他人から見た「私」は、その人にとっての「私」。

私が見ている「私」は、私にとっての本当の「私」(…と思いこまされていることもあるけど…)。

だから、他の人が私について何と言おうと、私は私を信じてあげればそれでいいんだと思いました。

「他人の評価を本当の自分だと思い込む」、私にはこういうことが結構あるけど、こうやって少しずつ、何度でもその度に気付いていければいいなと思っています。

だれかに心配の目を向けていなかったか?

次に、「自分は他の人に心配の目を向けていなかったか?」ということ。

私は、「この人心配だな。大丈夫かな?」と思うことが時々あります。

でも今回気が付いたのは、だれかを心配するのは私の自由だけれど、その気持ちを相手に伝えるかどうかは別だということ。

その気持ちをぶつけられた相手は、自分を信じてくれていないのだと、悲しい思いをしてしまうかもしれない。

その人を応援したいと思うなら、「大丈夫。きっとこの人は乗り越えていくし、その道中に困難があったとしても、それはその人の大切な経験なんだ。」と思って、心でひそかにエールを送るのが良いのかなと思いました。

あるいは、「何か手伝えることがあれば言ってね。」くらいにしておいて、それを必要とするかどうかは相手に任せておいた方がいいと思いました。

「自分を信じてくれる誰かがいること。」

これは本当にうれしいし、その人の力になることだと思います。

自分に心配のまなざしを送っていなかったか?

最後に、「自分に心配の目を向けていなかったか?」ということ。

私は、だれか他の人を心配するように、自分のこともいつも心配していたと気付きました。

「新しい職場でうまくやっていけるだろうか?」

「人間関係で傷つかないだろうか?」

「私の体は正常なんだろうか?どこかおかしいんじゃないのか?」

「〇〇をやめたら、だめな自分になってしまわないだろうか?」

「〇〇をしないと、恐ろしい目に遭うんじゃないか?」

こんな心配を、自分に向けてたくさんしてきたと思います。

自分が自分に向けるまなざし。

それがいつも心配のまなざしだったら、「自分は大丈夫だ」と信じられるはずもありません。

自分のことを信じる気持ちが、徐々に薄れてしまうと思います。

竹のようなしなやかさを、だれでも持っている

だれかが自分を心配してくれたら、その人の優しさだけ受け取っておこうと思います。

だれかに心配されたとしても、私は自分のことを大丈夫だと思っているのですから。

根拠はないけど(笑)

私は、人生でつらいことを乗り越えるたびに、「自分は雪の重さに倒れる竹みたいだな」って思います。

竹は、冬、雪の重みにしなり、ほとんど真横になるまで倒れてしまうものもあります。

でも、春が来て、雪が解け始めると、少しずつ少しずつ元に戻ろうとするしなやかさを持っています。

人生、いつも笑っていて、いつでもHAPPY、というわけにはいかなくて、誰でもたのしかったり、落ち込んだりの揺らぎを繰り返しています。

それでも、雪の重みにポキッと折れずに元に戻ろうとするしなやかさを、私は持っていると信じています。

もしポキッと折れても、その折れた場所からまた再生しようとする力が、この世界の生き物には宿っていると思います。

雪の重みに倒れた経験も、時間がたてば必要な経験だったと言える日が来ます。

私はいつもそうでした。

基本的に心配性な私ですが、人や自分への心配はほどほどにして、「ま、わからんけどなんとかなるわ!」くらいの気持ちでいる自分を選びたいなと思った出来事でした。